七五三と大宮氷川神社
10月31日(日)、台風一過、晴れると思ったのですが、朝から曇り模様。
今日は、孫の七五三で、大宮氷川神社へお参りです。
本来は11月15日なのですが、混む前に早めの七五三です。
ところが、境内は予想以上に混んでおり、着飾った子供達で一杯です。
我が息子たちの七五三以来ですが、今日は孫娘の為に、爺さんはもっぱらカメラマン役に徹することに!!
ここで、ふと疑問が…「七五三」って何??
もちろん、「子供の健康を祈願する行事」程度の事は知ってますが、その由来は?
今回、いい機会なので調べてみました。
ウィキペディアによると・・・・
元来は、関東圏における地方風俗だったらしい。
旧暦の15日は、かって二十八宿の鬼宿日(鬼の出歩かない日)にあたり、吉日とされ、又、この時期、収穫の感謝を兼ねて、子供の成長と加護を祈ったことに由来する。
三歳は髪を伸ばす「髪置き(かみおき)」、五歳は初めて袴をつける「袴着(はかまき)」、七歳は紐付きの着物から本仕立ての着物と丸帯にする「帯解(おびとき)・紐落(ひもおとし)」の名残りである。
一般的には・・・・
近世までの日本は乳幼児の生存率が低かったため、乳幼児の生存を祝う節目として定着したようである。
千歳飴は親から子に長寿の願いを込めて、細く長くなっており、縁起の良い紅白に着色されている。
江戸時代の元禄・宝永の頃、浅草の飴売り、七兵衛が売り出したのが始まりらしく、直径15ミリ以内、長さ1メートル以内に限るらしい。
もうひとつ、「大宮氷川神社」!
初詣には毎年200万人以上が訪れる大社ですが、埼玉に永く住んでながら、あまり詳しく知らないんです。
そこで、ついでに氷川神社の事も、一緒に調べてみる事にしました。
足立郡を中心に武蔵野国(東京・埼玉)各地にある氷川神社の総本社で、大宮の地名もこの氷川神社を「大いなる宮居」すなわち「大宮」と称えた事に由来する。
主祭神は須佐之男命(スサノオノミコト)、稲田姫命(イナダヒメノミコト)、大己貴命(オオナムチノミコト)ですが、すべて出雲の神様ですね。
旧中山道の吉敷町から神社まで、約2キロメートルの表参道が南北に伸びており「氷川参道」と呼ばれています。
手前から「一の鳥居」「二の鳥居」「三の鳥居」と続き、参道はすべてケヤキの並木で覆われてます。
写真は「三の鳥居」です。
創建は、社伝によれば考昭天皇の3年4月(紀元前473年)とされてますが、はっきりしないようです。
明治元年(1868年)、明治天皇が都を東京に遷した時、当社を武蔵野国の鎮守・勅祭の社に定め、明治4年には官幣大社に列せられた。
その結果、例大祭(8月1日)には、勅使の下向があり、東遊の奉納などの厳粛な祭儀が執り行われる。
ここからが興味深いのですが・・・・
氷川神社内にある神池は見沼の名残りで、もともと氷川神社は見沼の水神を祀ったことから始まったと考えられている。
氷川神社は、富士山と筑波山を結んだ線と、浅間山と冬至の日の出の位置を結んだ線の交差地点にある。
さらに、大宮の氷川神社・中川の中氷川神社(現中山神社)・三室の氷川女体神社が、浅間山と冬至の日の出の位置を結んだ線上に一直線に並んでいる。
そんなことから、この3社が男体社、女体社、簸王子社(ヒオウジシャ)として、一体の氷川神社を形成していたという説もある。
なんだか、宇宙の世界になって来ましたね。
調べれば、まだまだありそうなのですが、私の頭の限界のようです。
どなたか、詳しく解説頂けるとありがたいのですが・・・・
今回、京都に引き続いて、歴史を勉強してみましたが、やはり奥が深いです。
これからも機会があれば調べてみたいと思います。
七五三の方は無事終わり、カメラマンとしての役目も果たし、後は、祝い酒でほろ酔い気分です。孫娘はかわいかったですよ!!
今回は文字が多いので、字を大きくしてみました。
*急いで仕上げましたので、内容にミスがあるかも知れません。もしミスなどありましたらご指摘ください。訂正します。
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